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はじめに
怒涛の様の過ぎていこうとしている今年ですが、年末にかけて海外のお客さまの訪問が続いています。
先週のベルラーシのお客さまに続き、今週はノルウエイのTimさんが来社しました。
Timさんと始めて会ったのは、7年前のSingaporeでのラーメン学校のことでした。
その当時のTimさんは、35歳のプロの料理人だったのですが、ノルウエイでラーメン店を開く前に、当社が開催していたシンガポールのラーメン学校に参加し、それから親しくなり、10月にはラーメン店を開いたので、早速、ノルウエイに状況確認に行ってきたのです。
訪問したのは10月29日だったので、ノルウエイの10月末は既に非常に寒く、夜遅くオスロ空港に到着した私を空港まで、お父さんと一緒に迎えに来てくれたのです。
翌日は、オスロ市内の案内の後、地元のレストランでノルウエイ料理のランチを楽しんだ後、開店直前のTimさんのお店で、早速、さまざまなスープのオープン前チェックを行ないました。
1種類づつ慎重に味を確認し、同時にレシピ上でのチェックも行ない、Timさんにアドバイスを行なって、その夜もオスロで一泊し、翌日はフランクフルトに向かいました。
その後、Timさんのラーメン店は順調に営業し、1号店が非常に成功し、その後、2号店、3号店と続けて開店し、5号店迄出来たので、今回、本格的な展開に向けてお店と会社のブランデイングの為に当社に来られたのです。
ブランデイングと撮影の専門家を連れての来社で、久々に懐かしい会話を交わしました。
ブランデイングの為に、かなり長い時間、私自身の撮影をしてくれました。
撮影は、Timさんとの会話の様子、そして、私が自然な状態で、PCで仕事をしている様子、社内の工場内を歩き回り、社員と話し合っている様子等、非常に細かく撮影をしていました。
そして、撮影する度に、撮影した内容を確認し合い、問題がないことを確認して次の工程に進んでいきました。
プロのカメラマンが来ており、カメラワークもプロ中のプロのカメラワークで感心させられました。
今回も改めて感じさせられたのは、この様なプロのレベルの人たちと一緒に仕事をして、妥協のない仕事をしていることが、Timさんが短期間でラーメンビジネスの成功の階段を駆け上っている理由だと言うことが良く分かりました。
このような姿勢で仕事をしている人には、周りを見回しても、なかなかお会いすることがありません。
海外の生徒さんの中には、このような本来のビジネスの在り方を理解している人達を多く見受けますが、日本では、なかなかこのような人たちに出会うことは少ないのが残念です。
私自身のこと
私は仕事柄、取材されることが多く、私の過去、現在、未来を語ることが多いのです。
そのような取材の中で、多い質問が何故、製麺機の製造販売の仕事しているのですかという質問が多いのです。
そのような質問に答える場合は、私が小さいころの私の人生全てを話さなければいけないのです。
ですから、今回は「私の人生」について書いてみようかと思います。
私の生い立ち
私は昭和23年(1948年)5月10日生まれで、現在満76歳になります。
小さい頃は出来が非常に悪く、周りの人たちから馬鹿にされていたことを懐かしく思い出します。
多分、物分かりの悪く、小さい頃は頭が悪いと、周りから思われていたようです。
いまになって振り返ると、小さい頃の出来が悪かったことは、永い人生において全然問題でなかったことが良く分かります。
当時の私の家は裕福ではなく、栄養が足りていなかったようで、幼稚園に入るころに結核になり、幼稚園に行かずに療養生活を1年間送り、小学校1年生から初めての集団生活が始まったので、そのために、周りの同級生たちと馴染めずに、毎日、学校では喧嘩ばかりやっていて、先生の一番の鼻つまみの生徒だったのです。
そして、気の合った悪友たちとつるんで遊びまわっていたのです。
小学校低学年までは、非常に出来が悪かったのですが、小学校3年頃から近所にあった珠算教室に通い始めて、自分の得意分野に巡り合い、更に小学校高学年では模型飛行機作りに熱中しました。
その結果、自分はモノ作りに向いているということを見つけたのです。
これが、現在の仕事を始めるきっかけになったように思います。
手先は、私の親父ほどは器用ではなかったのですが、モノ作りにおいて新しいものを考え出す、創り出すと言うことに面白さを見出したのです。
従って、人生の比較的早い時期に好きで、得意な分野と巡り合えてことは、幸せなことだったと思います。
小学校6年位だったと思いますが、自分が大きな模型飛行機を作り、それに乗って空を自由に飛び回る夢を見ていたことを今でも思い出します。
まさに夢を見る少年時代を過ごしたのでした。
高松工業高等専門学校時代
小学校高学年から中学校にかけては、少しづつ勉学が面白くなり、特に算数、理科、幾何学が得意になりました。
従って、自分が理数系に向いていることを見つけて、その頃、日本全国で出来始めていた高専に入学したのです。
高松高専は、中学校を卒業して入学し、5年制の学校で、
年齢的には短大と同じですが、まだ高専という制度が出来て3年目の入学で、その当時は、非常に珍しがられていました。
憧れだった高松高専に入学してみると、先生も普通の学校の先生とは全く異なり、今になって思えば、情熱にあふれる先生ばかりだったと思います。
特に高等専門学校の制度が急に全国に出来たために、先生が不足して、それまで大手企業で課長職とか、部長職だった人たちが企業を辞めて高専の教授になったような方ばかりで、授業も破天荒な授業が多かったです。
そして、その頃学んだ、材料力学とか、熱力学とかの授業内容が今のビジネスでも大きく役立っているのです。
特に、その頃学んだ材料力学が、美味しい麺を作る時の組織の破壊のモデルにピッタリ合ったのです。
高専時代は、学びも熱心に行ないましたが、それ以上に熱中したのが運動で、小さい頃、身体を壊したために、充分な運動が出来ずに身体を鍛えるチャンスがなかったので、最初に剣道、次に少林寺拳法に打ち込み、少林寺拳法時代には、通常の人生では体験出来ないようなことも、たくさん体験する事が出来たのです。
川崎重工時代
私は小さい頃から模型飛行機作りに打ち込み、飛行機が大好きで、飛行機の設計がしたかったので 5年制の高松工業高等専門学校を56年前に卒業し、川崎重工業、航空機事業部に就職しました。
入社後の体験実習では、戦後初の国産旅客機YS-11の最終組立ラインで主翼のリベット打ちを体験したり、航空自衛隊初の国産ジェット輸送機C-1の設計図の一部に携わり、C-1輸送機の初飛行を体験し、その後は、航空自衛隊の主力戦闘機になったF-4EJファントムのライセンス導入に携わりました。
航空機事業部で働いている間で学んだことで、今でも役立っている概念が、飛行機の設計におけるフェイル・セイフとか、デザイン・フィロゾフィーという概念で、これらは、飛行機を設計する上での基本となる設計思想です。
飛行機は空を飛ぶので、安全性を非常に重要視し、どれか1つに問題が発生しても他の機能でカバーして、安全に飛べるようにするのが、フェイル・セイフという設計思想で、例えば、戦闘機の場合は、ファントムの1世代前の戦闘機F104の場合は、胴体にエンジンが1発だったので、エンジンが故障すると、即、墜落ですが、ファントムの場合は、胴体にエンジンが2発なので、1個のエンジンが停止しても安全に飛行を続けることが出来たのです。
これがフェイル・セイフという概念で、これは現代では全ての構造物の設計概念に取り入れられているのです。
次にデザイン・フィロゾフィーは、設計の最初の段階のコンセプト作成に当たる概念で、最初に決める基本設計によって、その後の全ての機能、働きが決まってしまうのです。
例えば、製麺機で言えば、麺の品質、美味しさを最優先に置いて、製麺機を設計するのか、或いは、コストを最優先にして設計するのかにより、製麺機の本来の性能、値打ちが全く異なります。
当然、当社の場合は全て、麺の美味しさ、機械の安全性、使い勝手を最優先しているので、その分、当然機械の価格は上がります。
従って、何処にウエイトを置くかというのが、デザイン・フィロゾフィーで、これはその後、私が独立してから仕事を進める上で非常に役立った概念です。
例えば、麺学校の経営講義で教えているコンセプトに相当するのが、デザイン・フィロゾフィーだったのです。
飛行機が好きで川崎重工に入ったと言っても過言ではありませんが、残念なことに、当時、川崎重工では設計する機体がなかったのです。
それでも私はどうしても設計がしたかったので、航空機事業部の景気が悪くなり、その頃活況であった造船事業部に転籍したのです。
造船事業部では、エンジンルームの設計部署に配属され、念願の設計に携わることが出来たのです。
希望通りの設計ができたのですが、複雑なメカ的な要素がなく、単純な設計なので、機械設計者としての技術レベルを上げ続けることは出来ないと思い、3年間造船の設計を行ない、ちょうど49年前に独立を果たしたのです。
会社の設立の経緯
私は根っからエンジニア向きの人間だったので、独立するのであれば、初めは工業用ロボットとか、自動機械の様な複雑なメカニズムの動き回るメカの分野を希望していました。
ところが、親戚は全員独立に大反対していましたが、反対を押し切り、青雲の志で独立したものの、その頃は、第2次オイルショックの時期だったので、私の希望するような仕事は全然なく、希望する仕事が全然なかっただけでなく、設計の仕事自体がほぼなく、仕事探しには大変苦労しました。
6年間勤務した川崎重工の退職金が9万円で、私が退職してから、川重では希望退職が始まり、希望退職に応募した同僚の退職金は100万円だったのです。
周りの反対を押し切って独立し、個人の機械設計事務所を立ち上げたのが、「大和製作所」の前身なのです。
独立後、あちこちで数限りない失敗を繰り返しながら徐々にビジネスのこと、ビジネスの厳しさが分かり始めたのです。
設計の仕事を探して、いろんなお客さま訪問を繰り返す間に徐々に分かってきたのは、私が住んでいた香川県は、讃岐うどんの本場で、徐々に麺関連の仕事入ってきたのです。
麺に関する仕事をしたら良いと先輩たちからアドバイスをもらい、製麺機ビジネスをはじめました。
独立する前から、本田宗一郎にあこがれていた私は、製麺機ビジネスをはじめるにあたり、初めからトップを目指しました。
そして、トップになるには何が重要かを深く考えこみました。
その結果、トップになる最も重要なことは、「麺の美味しさ」だと思い、麺の研究に取り組みはじめました。
麺の美味しさを測定する機械も買い揃え、麺の研究を徹底的に行い、気づけば、麺の面白さの虜になり、いつしか麺ビジネスが天職に感じていたのです。
一般的な人は、どのメーカーの製麺機でも同じだと思っているでしょうが、それぞれの製麺機の設計思想の違いにより、出来上がっている製麺機は全く異なるのです。
製麺機で美味しさが変わり、繁盛するかどうかが決まります。
それほど、製麺機の決定は麺ビジネスの繁盛にとって重要項目ですが、ほとんどの麺ビジネスのオーナーは気づいていないのです。
最初にうどん用製麺機「真打」の開発に成功したのですが、販売する仕事が待っていました。
販売を思い立った私は、どこから攻めようか迷いましたが、私は営業がからきし苦手だったので、まず他の営業マンとバッティングしない日本の一番南の鹿児島から販売を始めました。
地元で有名な厨房屋さんに紹介していただき、販売をしていきました。
スタートしたばかりなので、信用はゼロだったので、地元の知名度と信頼のある厨房屋さんを見つけ、トラックに機械を積み込み、各地で実演して販売しました。
そのようにして、私の人生初の営業活動が始まりました。
そして、当社の製麺機を使用し、繁盛していったお店が増え、全国に広がっていきました。
麺の研究
その頃の香川県はさぬきうどんの本場で、手打ち職人もたくさんいました。
さぬきうどんの古くからの製法は「朝練り、即打ち」ですが、その通り作っても美味しくない事実を発見したのです。
なぜだろうか、と考えましたが、古の時代と現在の最も大きな差は、小麦粉の差だと分かったのです。
香川県は、雨が少ないので、小麦の栽培に適し、収穫した小麦は河川に沿って作られた水車小屋で、水車製粉が行われていたのです。
昔の水車製粉なので、小麦の粒全体を潰して粉にしているので、外の渋皮まで挽きこんでいる全粒粉なのです。
従って、蕎麦粉の様に酵素活性が高く、寝かせる必要がなかったのです。
ところが、現在、われわれが使用している小麦粉は、小麦粒の中心しか使っていない精製粉で、灰分の含有量が0.34%付近の非常に精製度の高い小麦粉なのです。
私は、最初はこのような事実は分からなかったのですが、小麦粉の本場オーストラリアの小麦局の研究員とか、韓国の大手パンメーカーの研究員たちと麺の研究を行なっていくうちにいつしかこの事実を掴んだのです。
今でも北米、欧州の国々のパンとか麺は、日本ほど白い小麦粉では作っていないのです。
世界で、日本のパン製品、麺製品が最も白く、灰分に当たるミネラル分が最も少ないのです。
従って、日本の現在の小麦粉で製麺すると、寝かさないと美味しくないのです。
寝かすことによって、少ない酵素の働きが活性化され、美味しくなるのです。
この事実を見つけたので、私は業界で最初に適温で麺生地を寝かすことが出来る熟成庫を開発し、販売したのです。
更に、麺の研究では手作業と機械の違いを研究し、最も麺生地にストレスを与えない、シルキーミキサーの開発に繋がったのです。
先ほどのデザイン・フィロゾフィーでご紹介した通り、当社の製麺機の設計思想は、美味しさを最優先の設計になっているのです。
これは小型製麺機だけでなく、大型製麺ラインも全く同じ思想が貫かれているのです。
当社がトップになれた理由
製麺機ビジネスがある程度軌道に乗ってきた約20年前のある日、「製麺機を作っているだけではいけない」と思ったのです。
同じように、製麺機を販売しても非常に成功するお客さまとそうでないお客さまが現れ始めたのです。
その頃、日本のビジネス界で頭角を現し始めていた「セブンイレブン」の使命が「生業支援会社」であることを知人が教えてくれたのです。
セブンイレブンは、酒屋とか米屋の様な、廃れていく生業ビジネスを支援するために、セブンイレブンのコンビニ事業を始め、本来であれば、消えていく生業ビジネスを復活させたのです。
このことを教えて貰い、それでは製麺機を作っている当社の使命を考えた場合、当社は麺ビジネスの繁盛支援会社でないといけないと思い、使命を麺ビジネス繁盛支援会社としたのです。
そして、麺ビジネス繁盛支援会社であれば、その当時、まだ出来ていなかった年中無休365日メンテナンスを始めようと社員に訴えたのです。
その当時の社員数は30名あまりだったので、社員の負荷が大きくなるので、社員全員が反対したのです。
365日のメンテナンスを始める理由は、製麺機の故障が多いのは日曜日、祭日の様な忙しい日に起こりやすいのです。
しかし、365日のメンテナンスは社内では大反対が起き、退社する社員も数名出ました。
最初は、反対していた社員も説得を続けるうちに、何とか納得して、365日メンテナンスを始めることが出来たのです。
そして、実際365日メンテナンスを行ってみるとお客様の信頼が厚くなり、反対した社員も自分たちの行いを誇りに思うようになっていきました。
そして、それまでの当社は最後発でこの業界に参入し、ずっと業界2位だったのです。
ところが、365日メンテナンスを始めると、いつしか業界トップになったのです。
365日メンテナンスの後、うどん学校は24年前から始めました。
その頃は、さぬきうどんブームが広がり、製麺機の需要も広がっていきました。
その4年後にラーメンと蕎麦を始め、経営に関する講義も始めました。
現在は素人が手を出しても成功せず、プロでも苦労をする時代になりました。
学ばなければならないことも複雑になり、そのようなことも学校で教えるようになりました。
そして、製麺機ビジネスは日本だけにとどまらず、海外展開をしていきました。
未来へ
私は49年前にこのビジネスを始めて、例えようのないくらいにたくさんの失敗を繰り返して来て、更に未来に向けて、さまざまな挑戦を繰り返しています。
当社の今後の戦略がストレートに麺ビジネスを志す皆さまのお役に立てるとは思いませんが、私のたくさんの失敗の歴史から、これからの時代の麺ビジネスを志す方にお伝えしたいことは以下の通りです。
現在の日本の人口構成は、少子高齢化が進み、過去の人口数の時代に戻って行こうとしています。
現在の日本の人口は1億2450万人で、ピークの1億2810万人から減少の一途を辿っています。
しかし、過去の日本を振り返ってみると、人口が1億人を超えたのは1968年頃で、
私が生まれた1948年の人口は何と8千万人だったのです。
その頃の日本は悲観的だったかというと、決してそうではなく、戦後の復興期で多くの人たちが貧しいながらも幸せに暮らしていたのです。
私の両親が結婚したのはその頃だったのです。
そして、現在の日本を高いところから眺めてみて感じるのは、ビジネスの過当競争の厳しい分野とそうでない分野が入り混じり、これからの時代の可能性の高い分野のビジネスが見えています。
例えば、さぬきうどんの本場の香川県も一時は900軒近くあったうどん店も、現在では600店程度に落ち着いています。
しかし、これでも世界のレストランビジネスの競争レベルから言えば、多すぎるのです。
もし、この数が半分の300店程度であれば、香川県のうどん店の多くはもっと裕福になれるのです。
これは香川県だけの問題だけではなく、日本全体で言えることなのです。
しかし、日本にはこれと反対に足りていない、或いは、これから足りなくなるのは農業人口です。
世界の先進国のほとんどは農業国であり、これからのSDGsの時代になれば、ますます農業の重要度は増します。
麺ビジネスを志す若い人たちの半分くらいが、農業ビジネス、或いは漁業ビジネスに参入すれば、これからの日本はもっと豊かな未来が開けてくるように思います。
そして、麺ビジネスはこれからもっともっと高度化してくるので、1人で始めるのではなく、それぞれの専門分野のプロ中のプロたちが集まって始めるビジネスになると信じています。
これは、海外のお客さまの成功より、麺ビジネスの未来が見えてくるのです。