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うどんビジネスで大成功するためには
うどんビジネスの世界で大成功するために、最初にあなたが深く考えなければいけない大切なことは一体何だと思いますか。
そのために、まず最初に他の食品にはない、うどんだけが持つ強みについて考えてみましょう。
うどんだけが持つ強みとは、一体何でしょうか?
なぜ、あなたを含め、多くの人たちはうどんが大好きで、うどんを食べに行くのでしょうか?
うどん市場は、人口減少、高齢化が進む日本でもなぜ、伸び続けているのでしょうか?
少し、考えてみて下さい。
うどんだけが持つ強力な強みは、「独特な食感」と甘いふんわりとした出汁とのコラボではないかと思います。
食べ物の世界のヒットの物理的な構成要素は単純です。
人びとに好まれる食感と好まれる味覚、そしてその相乗効果です。
現在の世界の食感の大きなトレンドは、パリのバゲットにみられるような外はカリッ、中は「モチモチ感」です。
今回は、うどんの持つ強みの「独特な食感」をさらに複雑に細かく追求することにしてみます。
私はかって、プロになればなるほど、小さい違いが分かると言うことを聞いたことがあります。
極北などの氷雪地帯に住む先住民族のイヌイットの人々は、雪の種類を26種類見分けることができるそうです。
われわれが見分けられる雪の種類はせいぜい3~4種類程度です。
例えば、パウダースノウ、ボタン雪、みぞれ雪、新雪等ですが、イヌイットは何と26種類の雪を見分けられるのです。
要するに、プロ中のプロほど、細かい違いが分かり、細かい違いを創り出すことが可能ということです。
これからのうどん業界も同じことをやれば、あなたがこの業界で勝てるチャンスはいくらでもあるのです。
私が幼いころの70年前のさぬきうどんは、ほぼかけうどんだけだったのです。
それも製麺所で作った茹でうどんを食堂で温めて、うどん出汁をかけて提供するかけうどんだったのです。
それがざるうどんが発明され、釜揚うどんが発明され、ぶっかけうどんというように新しい食べ方提案、新しいうどんの美味しい食べ方の提案がされることに、うどんはブームになり、伸び続けてきたのです。
ここまで言えば、賢明なあなたは理解できたと思いますが、これからはその違いを創り出すのは、あなたの役目なのです。
そして、それをサポートするのが、私たち大和製作所の役目なのです。
当社は、あなた方有意の皆さまが麺ビジネスで、大成功するお手伝い、縁の下の力持ちの役割を担います。
今回は、これから大成功するうどん編についてです。
うどんの歴史について
ではまず、うどんの歴史を振り返ってみましょう。
以下は私、ロッキー藤井の長年の研究結果、私のオリジナルな考え方です。
うどんの歴史の真実、古い時代のうどん(0世代)
現在では、世界中で日本食と信じられているうどんは、韓国、中国から日本に入ってきた食べ物なのです。
そして、元々の原産地国よりも、はるかに日本で完成度が高まり、新しい日本の食文化として、さらに世界に広まっているのです。
うどんの歴史はそばよりも古く、日本人で最も長く愛されてきた麺料理といえます。
うどんのルーツはどこなのでしょうか?
諸説あるようですが、奈良時代に中国から伝来した「こんとん」を起源とする説が有力とされています。
小麦粉で作られた団子のようなこんとんを温かい汁に入れ、それを食べるようになったのが始まりなのだそうです。
また讃岐地方には、遣唐使とともに中国に渡った空海がうどんの文化を日本に広めたという逸話もあるようです。
現在のようにカツオ出汁と醤油で味付けした汁でうどんが食べられるようになったのは、
醤油が庶民の手に渡るようになった元禄時代(1688年~)以降です。
その頃から、うどんは日本中で愛され続けていますが、今では、さぬきうどんがうどんの代名詞の様に言われているのも事実です。
香川県のうどんの歴史は古く、うどんが伝わってきたのは1200年ほど前にさかのぼります。
延歴804年に弘法大師空海は唐の国へと渡りました。
1年ほど唐に滞在し、806年に今のうどんのもととなる製法、もしくは小麦、団子状の菓子のいずれかを持ち帰ったと言われています。
当時のうどんは今のように麺状ではなく、団子をつぶして薄く延ばしたものが主流でした。
現在のようになったのは、1700年頃に描かれた「金比羅祭礼図」の屏風絵にうどん屋が描かれていることから、
300年ほど前からだと考えられています。
江戸時代を舞台にした古典落語「うどん屋」に登場することから、江戸時代の庶民の味として定着していたようです。
現代では「うどん県」を標榜する讃岐うどんで有名な香川県を筆頭に、うどんの食文化は全国に普及しています。
香川県でうどんがここまで浸透したのには、この土地が小麦づくりに適した風土であったことも挙げられます。
1年を通して温暖な気候で降雨量も少なく、土壌も良質であったことから小麦作りが盛んになりました。
降雨量が少ないと水の確保ができず、香川では水田での安定した米作りが難しかったこともあり、
米から小麦に作るものを変えていきます。
当時米はぜいたく品であり、小麦は米の代用品として欠かすことができない食材となりました。
小麦農家ではうどん作りの製法が代々受け継がれてきたことも、うどんが広まった経緯のひとつです。
それに加えて瀬戸内地方では塩田も多く、塩づくりも盛んでした。
うどんのつゆとなる醤油作りが盛んだったこと、ダシが取れるイリコが作られていたことなど、原料となるものが身近にあったことも理由のひとつと考えられます。
さぬきうどんの進化、深化の歴史
わたしは、過去から現在、さらに未来にいたる讃岐うどんの歴史を第一世代、第二世代~第五世代と分類しました。
第一世代 1868年以降手打ち製麺の時代(明治維新以前を0世代)
A.第一世代 1868年以降手打ち製麺の時代(明治維新以前を0世代とすると)明治維新後はさぬきうどん第一世代になります。
この頃のさぬきうどんは、製法は完全手打ちです。
この頃から言われていた讃岐うどんの製法にまつわる伝承で、「土三寒六常五杯」という塩の量に関する言葉とか、「朝練、即打ち」と言われていた、手打ち製法に関する言い伝えがあります。
この頃の小麦の製粉は全て水車製粉で、製麺機はまだ作られておらず、うどんは手打ちと決まっていて、食べる方法はかけうどんだけだったのです。
私が10歳以下の小さかった頃、60年以上の前は、町にはうどん屋と言われていた手打ちの製麺所があり、朝から麺を打ち、茹でてうどん玉にして、販売していたのです。
それを食堂が仕入れ、簡単なかけだしを作り、かけだしとネギとか、かまぼこを飾りにして、かけうどんとして販売していたのです。
その様な簡単な食べ物だったのですが、戦後の貧しい時代では、それでも大変なごちそうだったのです。
要するに第一世代は、戦後の物不足時代であり、高度成長経済の入り口で、お腹を満たすのが重要な時代であったのです。
第二世代 1950年以降(第二次世界大戦後)
手打ち製麺の時代から、機械の黎明期(手作業や人力が主流だった時代から、少しずつ機械を使って作業を効率化しようとする動きが始まります)
かけうどんしかなかった時代の後、新しい調理方法(食べ方)が発明される度に、さぬきうどんブームが起きたのです。
一節には、釜揚げうどんは、大正時代初めに、愛知県岡崎市の大正庵釜春が最初に始めたとありますが、さぬきうどんの本場香川県で広まったのは、その遥か後のことです。
香川県でかけうどん以外の新しいうどんの食べ方を広めて、業界で一躍有名になったのが、川福の創業者ざるうどんを考案したのです。(1950年創業 )
それまでのかけうどんは茹で延びしたうどんを温め直して食べるのが、当たり前だったところに、茹でたてのうどんを冷たい水で締めて、鮮烈なうどんの食感を味わうざるうどんはまたたく間に、さぬきうどんの美味しさを日本中に広めたのです。
このすぐ後に、釜揚げうどんを広めたのは、金泉の創業者であり、ざるうどんも釜揚げうどんも茹でたての鮮烈なうどんの食感を楽しむ食べ物であり、いずれもつけつゆで食べるのが共通点でした。
要するに、現在のラーメンで言えば、つけ麺にあたる食べ方だったのです。
この頃までは、製麺方式は純手打ち式がほとんどで、店内で手打ち製麺を行なっている様子を見せていたのです。
第二世代を要約すると、打ち立て、茹でたてのうどん本来の美味しさを楽しむこと時代のはじまりでした。
香川県では、昭和40年頃(1965年)、手打ちうどんを作る工程の一部で足踏みされていたのですが、観光客に足踏みを見せるのは、不衛生だということで、足踏みの代用の製麺機を他の業者が開発して、製麺機業界に参入したのもこの頃で、製麺所とか、一部の繁盛店では、手打ち製麺機の導入が始まったのもこの頃です。
第三世代1976年以降 製麺機の導入が本格化
第二世代はつけ麺の時代であったのですが、第三世代は生醤油うどんとか、ぶっかけうどんで、うどんに濃いだしを直接かけて、うどんの鮮烈な食感を楽しむ食べ方が大成功したのです。
昔から、手打ちうどんの製麺所では、茹で上がったうどんに生醤油をかけて製麺所の隅でお客さまに食べさせていたのです。
それを新しいうどんの食べ方まで昇華した代表格が、小懸家が1976年に始めた、大根おろしの生醤油うどんは、お客さまに食べさせる生醤油うどんはあったのですが、小懸家の場合は、大きい大根を沢山準備して、お客さまに大根のおろし金を渡して、お客さまに大根をおろす作業をさせて、一種の体験をさせたことが非常に当たったのです。
その後、五剣山の中腹にある山田家がぶっかけうどんを始め、これも非常に話題になりました。
この頃になると、製麺方式は手打ちから徐々に、手打ち式製麺機を使う時代になり、うどん業界に製麺機がどんどん採用される様になってきたのです。
第三世代は、うどんの美味しさの上に、うどんのバリエーションを楽しむ時代になり、「うどんすき」がブームになったのもこの頃です。
当社は、1975年創業で、製麺機業界に最後発で参入したのもちょうどこの頃なのです。
最初に真打を開発し、販売を始めたのですが、真打は今までの製麺機の概念を超えていたので、なかなか最初は受け入れて貰えず、最初は販売に非常に苦労したのです。
ところが、美味しい麺が出来ること、女性でかんたんに操作でき、安全でコンパクト、デザインが良いのが特長でした。
そして、第三世代の終わり頃に当社が行なったのが、年中無休365日のメンテナンスで、既に25年間、一日も休まずに継続しているのです。
この頃までのうどん店の1日の製麺量は多いところで、小麦粉25kgで、食数にすれば、200食から300食程度でした。
特別に多いところで、25kgの小麦粉で2~3袋、食数にして、400食~900食程度だったのです。
第四世代 2000年以降 製麺機が大活躍する時代
この頃から、製麺機なしでのうどん店が考えられない時代へ変化していきました。
1976年に日本で始めてセルフのうどん店を始めたのは、岡山県岡山市にある「手打ちうどん名玄」です。
そして、岡山県、香川県を中心にセルフうどん店は沢山生まれたのですが、どれも個人商店の域を出なかったのです。
チェーン店として成功したのは、2000年に香川県で創業した「はなまる」で、現在では500店を超えるまで成長したのです。
はなまるは、殆どの店がFC方式で運営され、全国平均客単価は約400円程度だったのです。
同じく、2000年(平成12年)11月にセルフうどん業態を導入した1号店「丸亀製麺加古川店」を加古川市に開店したことをはじめに、街道沿いの独立店舗型を中心にショッピングモール内のイートイン型店舗や都心部向けのビルイン店舗を積極的な出店展開していました。
第四世代は、うどんの低価格化、デフレ時代に合ったうどんの時代になり、同時に生産性と機械化による効率化の時代になったのです。
第四世代の大きな特長は、はなまる、丸亀製麺等、大手チェーン店が誕生し、うどん店市場の寡占化が始まった時期でもあります。
第三世代のうどん店の1店舗の製麺量は最高で、25kgの小麦粉で2~3袋、食数にして、400食~900食程度だったのが、セルフのうどんのチェーン店が登場し、この食数が一気に何倍かになったのです。
多い店舗では、1日の麺生産量が2000食で、以前の様な手打ちでは絶対に賄うことが出来ない量になり、製麺機がないと、うどん店が出来ない時代になったのが、第四世代の特長です。
そして、どれだけ美味しい麺が出来るかと生産性が、製麺機の選定材料になりました。
第五世代 2020年以降 新しい概念の製麺機の時代
第五世代は、アフターコロナの時代に通用するうどん店のあり方を示すビジネスモデルになります。
不要なもの、余計なモノが淘汰されます。
まず、美味しくない店、食べログ点数の低い店、サービスの悪い店、汚い店、不便な店などバブル時代にはもてはやされていた様な店は確実になくなります。
家庭内ではテレビの居場所が無くなっているのと同じです。
お客さまに取って価値があるかどうかで、安くても、お客さまが価値を感じない様な店は、成立しません。
そして、生き残るのに、必要なことは生産性であり、第四世代のセルフ店の本質は生産性の高さだったのです。
生産性の高いセルフのチェーン店が大成功し、生産性の低い家業の店舗が淘汰されたのです。