なぜ現状維持ではなく挑戦し続けるのか?信念を持つ者達が挑戦を止めなかった理由

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ヒマラヤの近藤さんの話

数年前のテレビで、私は大変感動したのを忘れられないのです。 

それは、ネパール高地の山間部で、世界から取り残された恵まれない人たちのために、70歳を超えてからの晩年を捧げたある日本人の話です。 

その方は、ネパール・ムスタン地域開発協力会(MDSA)理事長だった、近藤亨(1921年6月18日- 2016年6月9日)さんです。 

近藤さんが活動をスタートした年齢は70歳を超えてからで、95歳で亡くなるまで貧しいネパールの人たちに現地で貢献を続けたのです。 

現在の日本では、70歳から海外に行き、現地の恵まれない人のために自分の貴重な人生を捧げることはほぼあり得ないことです。 

ネパールの秘境ムスタンに単身で住み、不毛の山岳地帯で水稲栽培に成功するなど、農業指導や学校・病院建設の民間支援活動を続けていたのです。 

かつて一度も 鍬(くわ) の入ったことのない荒涼たる台地を開墾し、日本古来の伝統的農法を応用しながら、極貧にあえぐ現地農民を相手に、米や野菜、果物の技術指導に取り組む毎日を送られています。 

ネパール政府や各国ボランティア団体からも半ば見捨てられたようなこの村で、近藤さんが水稲栽培を本格的に計画したのは、1994年。 

ネパールでは、普通の暮らしぶりの農家でさえ、白いご飯が食べられるのは、冠婚葬祭時か、せいぜい年に1、2回だったそうです。 

村人たちはソバガキの一種を常食としながら細々と暮らされていて、近藤さんは「貧しいムスタンの子どもたちに、腹いっぱい白いご飯を食べさせてやりたい」と思ったそうです。 

近藤さんの前に、さまざま団体、国々が何度も何度もトライしましたが、全て失敗したので、近藤さんも最初の3年間は、信頼されず、誰からも相手にされず、批判を浴びましたが、苦節4年目の98年、ついに黄金色の稲穂が実ったそうです。 

すると、それまで反対し、目もくれなかった村人たちも近藤さんを信頼し始め、そして2000年には、標高3600メートルのガミ村の農場でも、10アール当たり710キロ・グラムの大豊作。 

その後、水田を本格的に35アールに拡大しました。 

その他にも、92年にはMDSAをおこして資金を募り、小中学校10校の建設を援助したほか、ガミ村に病院を建設し、ボランティアの日本人医師と看護婦を派遣してきたそうです。  

近藤さんは、第8回読売国際協力賞(2001年、80歳)の贈賞式で表彰された際には、「気持ちは50代。これから私の人生が始まる。 

あと20年、ますます燃え盛っていきたい」と、挨拶されたそうです。 

そして生涯の恩師に言われたことは、

「人生を、職場を選ぶとき、安易な道ではなく厳しい道を選びなさい。
常に弱者に友情の手を差し伸べ、共に涙し、恵まれない者たちに生涯をささげなさい。
節を曲げず、自分が正しいと思ったら、それを貫く生き方をしなさい。」

と。 

この3つの遺訓を守って、頑張ってきたそうです。 

このような近藤さんの生き方を見て、私は感動しました。 

何事も始めるのに年齢は関係ない、自分の道は自分次第であるのです。 

笹川良一氏の話

笹川良一氏(1899~1995)が96歳で亡くなり既に29年(2024年時点)も経過しているので、笹川良一氏をご存じない方も多いと思います。 

Wikipediaでは、大正・昭和時代の日本の右翼活動家、社会奉仕活動家[2]。 

大阪府三島郡豊川村小野原(のちの箕面市小野原)出身。 

座右の銘は「世界一家 人類兄弟」。 

戦前は国粋大衆党総裁、衆議院議員。 

戦後は、財団法人日本船舶振興会(1962年設立。現在の公益財団法人日本財団)会長、国際勝共連合名誉会長(1968年就任。のちに辞任)、全日本カレー工業協同組合特別顧問、福岡工業大学理事長を務めた。 

箕面市名誉市民。勲一等旭日大綬章受章者。  

私の年代にとって、笹川良一氏は右翼の親玉であり、ボートレース事業の創始者であり、テレビでも「一日、一善、火の用心」 と子供たちと一緒に登場して、有名人でした。 

そのような笹川良一氏と昼食を摂ったのは、笹川良一氏が93歳の時でした。 

会った瞬間に驚いたのは、非常に小柄でしたが、姿勢が正しくピンとして、眼光が鋭く、目がキラキラ輝いていて、オーラに包まれていたのが印象的でした。 

その時に、笹川良一氏は既に93歳でしたが、年中無休で1日の休まずに働いていると言われ、その時に、一緒に同行した人たちが笹川良一に質問したのが、「先生、いつ休まれるのですか」。 

それに対して、笹川良一氏が返した言葉が、「あの世に行ってからゆっくり休む」でした。 

一緒に昼食を摂りながら、われわれに語り掛けてくれたのは、「自分は絶対に料亭の御馳走は食べない、常に粗食だから長生き出来る」と言われたのです。 

このような立場の人ですから、毎晩でも料亭での食事が当たり前の様ですが、一緒に摂った昼食も本当に粗食で、職員の人たちと同じ食堂で、同じ食事を摂っていたのです。 

笹川良一氏は、その後、96歳でこの世を去りましたが、私がお会いした丁度3年後でした。

徳川家康の話

徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉との違い、徳川家康ははじめから天下統一を目指したわけではありません。 

信長にこき使われ、秀吉の命でその当時、田舎の荒れ地であった関東へ遠ざけられた家康でした。 

それでは、この3名の死生観を見ていきます。 

信長は、生物は個体単位で消滅するという死生観でした。 

信長には、特に好んだ舞と小唄があり、舞は、幸若舞の「敦盛」で、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」の一節であり、小唄は、「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの」です。 

以上を現代風に翻訳すると、人の世の五十年は、下天(宇宙)の一日にすぎない。 

夢や幻のように儚いものである。 

人は生まれてきた以上は、死ぬ定め。 

自分の死後にも語り継がれる為に何をしようか。 

何か残すことが出来れば、その「しのび草(生きた証)」をもとに、後世の人は自分のことを思い出し、語り継いでくれるだろう。 

以上の2つの唄から伝わってくるものは、「人は生きていられる時間は限られている。だからこそ、後世にまで語り継がれるような、自分の”生きた証”をこの世に残そう。」というものでした。 

この織田信長の思い、願いは現代においても、十分に叶っているのです。 

秀吉も同様で、秀吉一代のみの夢です。 

秀吉は、織田信長に仕え、出世していくのですが、織田信長亡き後も、戦いに勝ち続け、頭を下げ、最後は無事に天下統一したのです。 

天下を取ったにもかかわらず、秀吉には弱点があり、それは世継ぎが安定していないことでした。 

最晩年になっても、唯一の嫡男「秀頼(ひでより)」は、当時6歳で、6歳の子を残して先立つ悔しさは、想像以上だったと思われます。 

秀吉の死因は、病死で、慶長3(1598)年3月には盛大な花見を催していたが、5月には体調が悪化し、8月18日に死去し、あっという間の出来事だったのです。 

死ぬまでの僅か数ヵ月、秀吉はこの短い期間で、死後のコトを考えねばならなかったで、心配の種はというと、ひとえに秀頼に天下人を継がせられるかということでした。 

死の2週間ほど前には、五大老に宛てた遺書も書いているのですが、あれほど権勢を誇っていた秀吉だったのですが、見る影もなく、ただひたすら、諸大名らに頼むしかなかったのです。 

「『秀頼が成人するように、この書付を書いた人々に頼み申す。何事も、このほかには思い残すこともない。くれぐれも秀頼のこと頼み申す。五人の方々にお頼みする。くわしいことは五奉行に申し渡した。名残惜しいことだ』と繰り返し懇願した。」 

(若林利光著『戦国武将の病が歴史を動かした』より一部抜粋) 

五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景のちに上杉景勝)と五奉行(前田玄以、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家)は起請文を交換。 

成人後の秀頼が政権を掌握できるように尽力するとの誓約もなされたという。 

死の数日前には、枕元に徳川家康ら五大老を呼んで、秀頼のことを頼むとさらなる念押し。 

こうして、秀吉は無念のうちに御年62歳でこの世を去ったのです。 

じつは、秀吉にも先見の明があり、自分の死後、秀頼が成人するまでは徳川家康が統治するのですが、しかし、家康の力が莫大になり過ぎる可能性も考えていたようで、秀吉はそこまで天下にこだわらず、万が一、天下人から下ることになっても、豊臣家存続さえできればいいと思っていたのです。 

「天下はみな自然と徳川殿の家風にしたがってしまうであろう。
そのとき、なまじっかわしの旧恩を思う者が、幼少の秀頼を輔佐して天下を取ろうと謀り、徳川殿と合戦をするようなことになれば、わが豊臣の家はおのずと滅びること、きわめて近き将来にある。
その方らが、もしわが家が絶えないうちにと思うなら、心して徳川殿によくしたがい仕え、秀頼のことを悪く思われぬように計ってくれ。
そうすればわが家も絶えずにすむかもしれぬ。」 

(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋) 

以上のような2人の先輩たちとは異なり、家康は自分が死んだあとも、徳川の世が続くことを望んでいたのです。 

信長と秀吉は、自分の考えで、いかに人を動かせるかと、常に命がけでした。 

しかし、家康はそうではありませんでした。 

家の永続と、誰もが棲み分けによって生きていける世の中を作ろうとしていました。 

個人の夢の為に、戦う世の中を変えたのが家康なのです。 

徳川家康が天下統一できた理由は諸説ありますが、その理由が明確に断言できる出来事として、一般的には関ヶ原の戦い(1600年)での勝利が挙げられます。 

ちなみに、この戦いに勝利した際の家康の年齢は、数え年で58歳でした。 

健康オタクだったことは、のちほど詳しくお話ししますが、健康に執着していたことも理由の1つでしょう。 

あとは忍耐強さもあります。 

幼少期から数々の困難を経験し、忍耐強く目標に向かって突き進む姿勢を身に着けたそうです。 

そして長期的な視点目先の利益にとらわれず、天下統一という長期的な目標を常に意識し、そのための準備を怠りませんでした。  

私生活は質素で、無駄を省くことを心がけていました。 

また老齢になっても学習を怠らず、常に新しい知識を吸収しようとしていました。 

これらの特徴を総合すると、徳川家康が天下統一を成し遂げることができたのは、忍耐強く、狡猾で、そして実務に強いという総合的な能力があったからと言えるでしょう。 

彼は、単に武力だけでなく、政治、経済、外交など、あらゆる面において優れた能力を発揮し、天下泰平の礎を築きました。 

何歳になっても学ぶことをやめてはいけません。 

命ある限り、学び続けるのです。 

当社では、うどん学校、蕎麦学校でだしの美味しさのメカニズムをシッカリと教えています。 

何故、そうなるのかを使いする事が重要です。 

世の中が、益々複雑になるので、我々が知っておかなければいけない事は、常に増え続けています。 

だから、我々は学び続ける事が大変重要なのです。 

片時の休みもなく、学び続ける事が我々にとって、非常に重要な事を改めて、色んな事象が教えてくれます。

健康オタク

徳川家康は戦国大名の中で突出して長寿だったことを知っていますか。 

独自に薬学を研究するなど、人1倍健康に気を付けていたそうです。 

身体に良いと思う薬は、かなり熱心に収集していて、晩年には、心身の健康のために東南アジアから香木を集めていたそうです。  

学をふくめて強い執着を貫いた先に、当時としては異例の75歳までの長寿が得られたのではないでしょうか。 

永く生き残ることは、人生においても、ビジネスにおいても最強の戦略だと言えるのです。 

そして、織田信長、豊臣秀吉よりも生まれる時代は遅かったこと、遅すぎなかったこと、多くの幸運に守られた結果であり、いかに運を味方につけることの大切さも良く分かるのです。

一貫性を大切に

「自分の人生に最期まで付き合う、最後まで諦めない、 妥協しない、一貫性を大切に」

これは私の拙い人生を通じての結果であり、永い繁栄を目指すための生き方です。 

もし、私が今日、この場所にいることが出来ている原因をひとつ挙げなさいと言われたら、どんな難しい時にも、諦めなかったことだと言えるかも知れません。 

成功者は例外なく「諦めない」精神を持っている

成功者は例外なく「諦めない」精神を持っています。

  • エジソン:白熱灯の発明に5000回の失敗
  • フォード:5回倒産を経験
  • リンカーン:大統領になるまで8回の落選

エジソンは白熱灯を発明するまでに、約5千回の実験で失敗をしています。 

フォードは、成功するまでに5回も倒産しています。 

リンカーンは大統領になる前に、8回も落選しています。 

彼らが栄光の座を勝ち得たのは諦めなかったからです。 

私などは、恥ずかしくて言えないくらい、たくさんの失敗を繰り返してきました。 

失敗は学びであり、成功に繋がる

「失敗は存在しない。成功と学習があるのみ」と、言われています。 

失敗しているように見えても、諦めなかったら、学習なのです。 

学びなのです。 

諦めて止めてしまうと、そこで終わってしまい、失敗の歴史が残るだけです。 

どんなことがあっても諦めないこと、止めないこと、継続が必要なのです。 

これに必要なことは覚悟です。 

絶対に引き返さない覚悟です。 

妥協しないことです。 諦めないこと、妥協しないこと、高い目標を掲げることが成功への道です。

もし、アップル社のステイーブ・ジョブズが自分の信念を貫くのを諦めて、部下の持ってきた、開発途上のipodとか、iphone等で満足してしまったら、現在のアップル社にはなっていません。 

だから、諦めないということは常に高い目標とセットになっています。 

低い目標であれば、常に、簡単に解決するはずですから。 

常に高い目標を掲げ続けて、絶対に諦めないことです。 

次は常に安心領域に留まらないという課題です。 

何か、難しい課題があって、それに向かって一生懸命に努力し、一旦、解決して出来上がってしまうと、それは、すぐに安心領域になってしまいます。 

挑戦し続ける姿勢が成長を生む

筋トレに例えると、良く判ります。 

腕立て伏せが日々のトレーニングの成果で、40回出来るようになったとします。 

すると、40回以下の回数を幾ら繰り返しても、それ以上に回数は伸びません。 

出来ないのを無理して、40回以上にチャレンジしていると、いつか、41回、2回と徐々に伸びてきます。 

腕立て伏せだけではなく、英会話とか、学ぶことは全て同じです。 

出来ないところを無理やりやっていて、初めて出来るようになります。 

だから、現在、出来ているところは安心領域です。 

既存のうどん、そば、ラーメン店が日々の営業でやっていることのほとんどは、この安心領域でやっているはずです。 

去年と同じ事をやり続けていると、今の時代は今年の売上は必ず落ちます。 

だから、われわれは常に安心領域からはみ出して、現在の持っている力では出来ないことに挑戦し続けていかない限り、進化はあり得ないのです。 

安心領域にどっぷり浸かって同じことをやり続けていると、いつか、安心できない状態に陥ってしまいます。 

そのような状態にならない為にも、常に安心領域から脱出し続けることです。 

そして、新しい領域に達しても、そこがすぐに安心領域になるので、そこで居続けないことです。 

常に新しい、非安心領域を求め続けることです。 

常に安心領域からはみ出し、挑戦し続けることが心地よいという習慣を身に付けることが大切なのです。 

どんなに苦しくても、一貫性を持って、負けないでやり切る事が重要です。 

何事にも、一貫性を持って、真剣に取り組む事、そして、どんな事があっても、諦めない事、投げない事が大切です。

高い志の話

あるとき海外在住の日本女性が2名、当校に入学なさいました。 

北米と台湾でそれぞれ恵まれた生活を送っている主婦ですが、積極的な姿勢が印象に残っています。 

平均以上の生活を送っていながらわざわざ日本の麺学校で学ぼうというのは、高い志の表れです参加態度が積極的な人ほど志が高い。 

これが私の仮説です。 

高みを目指す人は常に積極的で、その情熱がこちらに伝わります。 

分からないことがあれば熱心に質問をぶつけてきます。 

物事に取り組む情熱の差は、本人の志の違いだと思います。 

目標が高ければ高いほど情熱が強くなり、達成する可能性も高まります。 

目標と情熱は表裏一体です。 

あなたが情熱に欠けているとしたら、それは目標が低いからではないでしょうか。 

あるいは、なすべき目標を持っていないのかもしれません。 

大きな功績を遺した人物は例外なく熱い情熱を持っていました。 

ナポレオン、エジソン、ガンジー、ナイチングール、松下幸之助、本田宗一郎、盛田昭夫。 

彼らの大きな夢を実現させたのは、胸に燃える強い情熱だったのです。 

情熱の差は志の差。 

夢を実現するには熱い情熱が必要。 

仕事に対する情熱は、自分の使命を明確にすることでますます燃え上がります。 

自分は一体何のために今の仕事をしているのか。 

たった1回しかない貴重な人生を、なぜこのビジネスに捧げようとしているのか。なぜそれをやりたいのか。 

「なぜ」に対する答えがあなたの使命です。 

使命が高い志に根ざしていればいるほど多くの賛同者を巻き込むことができ、多くの賛同者の協力を得て、事業の完成が加速されます。 

 そして、自分の仕事に打ち込むこと。 

真剣に打ち込めば打ち込むほど仕事に対する愛着が湧き、強い情熱が湧き起こってくるでしょう。

まとめ

ここである方を紹介したいと思います。 

現在80歳で、昔は商社勤務、現在は先祖代々の山林の地主、37年間、徳島市で日曜ビックリ市を主催している玉井さんという方です。 

玉井さんは、人生の達人です。 

フィクサーでもあり、何事も前向きに取り組む方です。 

不可能はないという考え方で、どこへでも情報を収取に行かれます。  

とてもすばらしい方なのに、非常に腰が低いのです。 

まとめ

成功者には共通して「一貫性を持つこと」「挑戦し続けること」「高い志を持つこと」が求められます。安心領域を抜け、新しい挑戦を続けることが不可欠なのです。「なぜそれをやりたいのか?」という使命を明確にし、情熱を持って取り組むのです

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藤井 薫(ロッキー藤井)

株式会社大和製作所、株式会社讃匠 代表取締役。
令和5年 秋の叙勲にて「旭日単光章」受章。

1948年5月、香川県坂出市生まれ。国立高松工業高等専門学校機械工学科卒業。川崎重工株式会社に入社し、航空機事業部機体設計課に配属。その後、独立し、1975年に大和製作所を創業。

過去48年以上にわたり、麺ビジネスを一筋に研究し麺ビジネスの最前線で繁盛店を指導。麺専門店の繁盛法則について全国各地で公演を行う。小型製麺機はベストセラーとなり、業界トップシェアを誇る。
「麺店の影の指南役」「行列の仕掛け人」として「カンブリア宮殿」「ありえへん∞世界」「スーパーJチャンネル」等、人気TV番組に出演するほか、メディアにも多数取り上げられる。
また、2000年4月にうどん学校、2004年1月にラーメン学校とそば学校を開校し、校長に就任。

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